2007119日 大阪地裁 出版停止等請求事件 「本人尋問」記録

本文は、複数の傍聴メモを元に再現したものです。他の新聞の尋問要旨等を読み深めるためにご活用いただきたいと作成いたしました。

そのため、尋問の細かな表現まですべて再現しているとは言えませんが、できるだけ問答については省かずに掲載しました。

 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅澤裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅澤さんに対する本人尋問が行われた》

 

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」

 梅澤「はい」

 原「所属していた海上挺身隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」

 梅澤「はい」

 原「当時はどんな装備だったか」

 梅澤「短機関銃と拳銃、軍刀。それから手榴弾もあった」

 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」

 梅澤「戦えない」

 原「陸上戦は想定していたのか」

 梅澤「いいえ」

 原「なぜ想定していなかったのか」

 梅澤「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」

 原「どこに上陸してくると思っていたのか」

 梅澤「沖縄本島だと思っていた」

 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」

 梅澤「していない」

 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」

 梅澤「村の助役と収入役、小学校の校長、役場職員、それに女子青年団長の5人だった」

 原「5人はどんな話をしにきたのか」

 梅澤「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。サイパンの話も聞いている。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」

 原「誰から言われているという話だったのか」

 梅澤「役所の上司、那覇あたりの行政から。それで、弾を破裂させ殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、ということだった」

 原「どう答えたか」

 梅澤「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれは後方にさがって陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」

 原「弾薬は渡したのか」

 梅澤「拒絶した」

 原「5人は素直に帰ったか」

 梅澤「執拗に粘った」

 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」

 梅澤「30分ぐらい」

原「お帰りくださいと言ったのか」

梅澤「そんな生やさしいことはいわず、『帰れ!』と言った。『死んではいけない』と言って追い返した」

 原「その後の集団自決は予想していたか」

 梅澤「全然、予想していなかった」

原「本部壕はどこにあったのか」

梅澤「古座間味の本部壕、住民とは1キロメートルほど離れていた」

 原「集団自決のことを知ったのはいつか」

 梅澤「昭和33年の春ごろ。『週刊朝日』『サンデー毎日』の報道で知った」

 原「なぜ集団自決が起きたと思うか」

 梅澤「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」

 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」

 梅澤「とんでもない」

 原「『島民に芋や野菜をつむことを禁じ』とあるが、島民に餓死者はいたか」

 梅澤「いない」

 原「隊員は」

 梅澤「兵には数名いる」

 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」

 梅澤「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」

 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」

 梅澤「昭和52年に(宮城)初枝から手紙が来て面会することになった」

原「それでどうしたか」

梅澤「昭和57年ころだったと思う。部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」

 原「団長の娘の手記には、梅澤さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」

 梅澤「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」

 原「初枝さん以外の4人の運命は」

 梅澤「自決したと聞いた」

 原「昭和57年に宮城初枝さんと再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」

 梅澤「はい。私が覚えていたのは娘だったが、それから40年もたったらおばあさんになっていたから」

 原「その後の初枝さんからの手紙には『いつも梅澤さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」

 梅澤「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたと言え』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」

 原「昭和62年に、助役の弟に会いに行った理由は」

 梅澤「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」

 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」

 梅澤「1人で行った。3時ごろだったか」

原「会って、あなたは何と言ったか」

 梅澤「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」

 原「そうしたら、何と返答したか」

 梅澤「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」

 原「どんな話をしたのか」

 梅澤「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」

原「(宮村幸延が書いたという文書を見せ)この証文は誰が書いたのか」

梅澤「わりとすんなりと書いた。文章をどういうふうにしたらいいのかと」

原「それでどうしたのか」

梅澤「私が考えて書いたものを見せて」

原「これは、どういうものか」

梅澤「私が下書きしたものかわかりませんな」

原「下書きと文書の違いは」

梅澤「幸延氏がその方がよいと思って書いた」

原「その時、幸延氏は泥酔していたか」

梅澤「泥酔していなかった」

原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」

 梅澤「資力がなかったから」

 原「裁判で訴えたいことは」

 梅澤「自決命令なんか絶対に出していないということだ」

 原「多くの島民が亡くなったことについて、どう思うか」

 梅澤「気の毒だとは思うが、『死んではならない』と言った。責任はありません」

 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」

 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

 

《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》

 

 被告側代理人(以下「被」)が「防衛省にある『沖縄方面陸軍作戦』をもとに、軍が島に駐留してから以後のことを聞く」と梅澤は、「4410月から特攻基地建設、特攻の訓練」をやったことと452月以後島に駐留する日本軍の最高指揮官は梅沢であったことを「認める」

 被「座間味島の忠魂碑前で、8の日に儀式が行われていたことを覚えているか」

 梅澤「覚えていない」

 被「大詔奉戴日とはどういうことの日か」「太平洋戦争開戦の日に大詔が出されたことを記念し必勝祈願をする日だったのですね」

 梅澤「そうだと思います」

 被「その儀式に軍は参加していたか」

 梅澤「参加していません」

被「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたことは知っていたか」

 梅澤「島の長が島民に教育していたと思う」

 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」

 梅澤「浸透していたと思う」

 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」

 梅澤「そういうことは、新聞や雑誌を通じて報道されみな知っていた」

被「軍の作戦本部は最初村役場の会議室と青年会館におかれたのか」

梅澤「使ったことはない」

被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」

 梅澤「村役場のものが、用があればやってきた」

被「島民への指示はだれがしたのか」

梅澤「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」

 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」

 梅澤「私から基地隊長にお願いした」

 被「軍の装備について。軍にとって手榴弾は重要な武器か」

 梅澤「はい」

 被「宮城初枝さんが木崎軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」

 梅澤「はい。初枝から聞いた」

 被「(座間味村史を示し)宮里育江さんが325日に『連れて行くわけにはいかない。民間人だし足手まといになる。万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いているが、このことは知っているか」

 梅澤「知らない人だ」

 被「こんなことがあった、というのは知っているか」

 梅澤「おそらくそんなことはなかったと思う」

 被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという宮平初子さんの手記は知っているか」

 梅澤「言うはずがないと思う」

 被「宮川スミ子さんは『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」

 梅澤「そういうことは全然知りませんし、ありえないと思う」

 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」

 梅澤「ありえない」

 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」

 梅澤「知らない」

 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」

 梅澤「知らない」

 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」

 梅澤「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」

 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」

 梅澤「同じだ」

 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」

 梅澤「言った」

 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」

 梅澤「言った」

 

《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》

 

 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」

 梅澤「違う」

 被「沖縄タイムス社との会談のテープがあるが聞いているか」

梅澤「聞いていない」

被「記録もあるが読んだか」

梅澤「読んでいない」

被「あなたは『家族に見せるため』ということではなかったのか」

 梅澤「それだけではない」

 被「328日、(宮里)芳和さんに電話かけてもらって会ったんでしょう」

梅澤「記憶にない」

被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」

 梅澤「去年」

 被「どういう経緯で読んだのか」

 梅澤「念のため読んでおこうと」

 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」

 梅澤「ない」

 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」

 梅澤「ない」

 被「(梅澤の手紙を示し)あなたが昭和55年に出した宮城晴美さんへの手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響力が甚大であり、軍を代表するものとして全く申し訳ありません』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」

 梅澤「私は『軍は関係ない』とは言っていない」

 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」

 梅澤「関係ないとは言えないという趣旨だ。責任は米軍にある」

 

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》

 

 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという命令を島民に出したか」

 梅澤「出していない。兵も配置していない」

 原「軍は何かしたのか」

 梅澤「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」

 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」

 梅澤「ありえない」

 原「軍は全島に展開していたからか」

 梅澤「はい」

 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、『ある神話の背景』は読んでいたのか」

 梅澤「はい」

 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」

 梅澤「知っていた」

 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅澤さんの名前は書かれていなかったという意味か」

 梅澤「そういう意味だ」

 

 《被告側代理人も再び質問》

 

 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」

 梅澤「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」

 

 《梅澤の本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》

 

《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次の弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》

 

原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」

赤松「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」

 原「1950年に発行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」

 赤松「読んだ。大学の近くの書店で偶然見つけて手に入れた」

 原「戦争の話には興味があったのか」

 赤松「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、戦争のことを知りたかったからよく読んだ」

 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」

 赤松「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」

 原「お兄さんに確認したことは」

 赤松「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、1960年ごろ本棚で見つけて持って帰った」

 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」

 赤松さん「『沖縄戦記』も。ほかにも2、3冊はあったと思う」

 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」

 赤松「そりゃショックだ。329人を殺した人殺しと書かれているんですから。」

原「それで、どうしたか」

赤松「親兄弟に話さず一人で悩んでいた。ショックで友だちの下宿に転がり込んでいった」

 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」

 赤松「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できた」

 原「『ある神話の背景』は、どういう経緯で読んだのか」

 赤松「友達が教えてくれた。うれしかった。無実がはっきり証明され、信頼感を取り戻せた」

 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」

 赤松「これだけ書かれたら、間違った事実を書いているものは廃刊になるだろうと思った」

 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」

 赤松「大江健三郎先生は直接取材したこともなく、島にも行かず、兄の心の中にまで書かれている。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」

 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」

 赤松さん「はい」

原「『ある神話の背景』は」

赤松「友だちにも送りました。読んでくれと。宝物みたいなもんですわ」 

原「訴訟を起こしたきっかけは」

赤松「3年前に兄の(陸士の)同期の山本明さんから話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」

 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」

 赤松「むずかしい本ですね。兄の部分だけをパラパラと読んだ。いやとばして読んだ。」

 原「悔しい思いをしたか」

 赤松「はい。45年渡嘉敷島に行ったことまで終章に書かれている。兄も46年『潮』に「私は自決を命令していない」を残しているが、極悪人と面罵(めんば)され、娘に誤解されるのは辛いからと。兄は無実をはらしたいと思っていた。私も兄の無念の思いを晴らしたい。」

 

原告代理人が『潮』の文を読む、

 

《裁判長から、「時間を守りなさい」との注意があり、原告側代理人の尋問が終了》

 

被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」

 赤松「ない」

 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求 めたことがあったか」

 赤松「なかったでしょうね」

 被「山本明さんからすすめられたので、裁判を起こしたのか」

赤松「そういうことになります」

被「お兄さんの手記は読んだか」

赤松「『潮』は読んだ」

被「『島の方に心から哀悼の意を捧げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」

 赤松「知っている」

 

原告側代理人が再尋問

原「裁判は人に起こせと言われておこしたのか」

赤松「山本さんからもどうだと言われましたが、歴史の事実として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」

 

《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した 1353分》

 

《午後1時55分、大江健三郎氏が証言台に。》

 被告側代理人(以下「被」)『陳述書』を確認し、

被「『沖縄ノート』は1970年9月に出版、この本の3つの柱について説明してください」

大江「はい。第1の柱は本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。私は日本国憲法のもとで暮らしているのに、沖縄では憲法が適用されず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、1970年に渡嘉敷島の守備隊長が島を訪れるということを新聞で読み、日本人のあり方についてです。現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人がアジアと世界に対して普遍的な人間であるにはどうすればいいのかということを自分に問いかけるために書いた」

 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかがテーマか」

 大江「はい」

 被「『沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」

 大江「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」

 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」

 大江「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『~という命令』とした」

 被「日本軍の命令ということか」

 大江「はい」

 被「執筆にあたり参照した資料では、赤松さんが命令を出したと書いていたが」

 大江「はい。沖縄タイムス社の『鉄の暴風』にも、上地一史さんの『沖縄戦記』にも書いていた」

 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」

 大江「この大きな事件は、ひとりの隊長の資質、性格や選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」

 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」

 大江「そう」

 被「守備隊長に責任があると書いているのか」

 大江「はい」

 被「実名を書かなかったことの趣旨は」

 大江「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」

 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」

 大江「日本軍―32軍―守備隊という構造ということを考えると、一般的な日本人という意味でありむしろ名前を出すのは妥当ではないと考えている」

 被「渡嘉敷や座間味の集団自決は日本軍の命令によると考えるのは」

 大江「『鉄の暴風』『沖縄戦記』など参考資料を読んだり、牧港篤三さんに会い、いろんな人の話を聞き、日本軍の命令という結論に至った」

 被「陳述書では、軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」

 大江「はい。なぜ、慶良間で700人もの人が自決したかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『軍官民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」

 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」

 大江「私くらいの年代のものは、『戦陣訓』は常識のようなもの。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると教えられた」

 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」

 大江「劇団『創造』の人や牧港さんのほか、泊まったホテルの従業員らからも聞いた」

 被「集団自決は手榴弾で行われたのは知っているか」

大江「知っている。何人もの人から聞いた。重要な武器がどうして渡されたのか、不思議である」

被「いつ渡されたものか」

大江「事前に32発、当日に20発、『鉄の暴風』に書いてある。赤松隊から渡された手榴弾で自決したと」

被「慶良間の集団自決について、現在も、やはり日本軍の命令と考えているか」

大江「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなった」

被「『おりがきたらと判断したのだ。そして彼は那覇空港に降りたったのであった。』というのは」

大江「集団自決を強制したと記憶される男、『命令された』集団自決をひきおこす結果を招いたことのはっきりしている守備隊長、と書いている」

被「おりがきたといって那覇空港に降りたった守備隊長に対しては」

大江「日本軍が沖縄で行ったことは戦争犯罪だと思う。沖縄法廷で裁かれるべきだと考えた」

 

《このあとの部分は、イザ!ブログにはないが、『WiLL071月号に掲載されているので、それを修正した。

 

被「『人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいと願う』とあるが、これは渡嘉敷島の守備隊長のことか」

 大江「そうです」

被「この罪というのは何か」

大江「罪というのは、集団自決の、軍の命令によってあの大きい数の死者が出たということです」

被「巨塊とあるが、この巨塊とは何か」

大江「巨塊というのは、大きい塊という文字を書いておりますが、あの、ご存知のように日本の字引には「キョカイ」という音で大きい塊と書いたものはありません。現在もありません。それで私は、この巨塊という言葉を日本で作りたいと思います。それでツミノキョカイと読みますが、私が最初に書きました時には、渡嘉敷島で死体となって霊となった数多くの人たちというふうに書きました。それは死者に対して私は無礼だと思いますので、死者という言葉を使うことをやめました。罪の塊、ということを、罪の結果の塊ということを考えまして、あまりにも大きいその集団自決の死体の塊、死体の集まりの前で、それに関係している人が罪に関してどのように感じるだろうかということを推測した、想像したというわけでございます」

被「『あまりにも巨きい』の意味は」

大江「あまりにも巨きい罪の巨塊に、罪の、ないし、犯罪の結果の死体の巨きい塊、という事が巨塊になりますが、巨塊の巨、を強調するために使われています。一般にあまりにも、という言葉が、あまりにも、という副詞がつかないままですね、巨きい罪の巨塊と言いますと、巨きいという言葉の反復は同義語反復とこう言いまして、文法的に正しいとは言わない。本来の文法の場合、それは強く避けられます。しかし、「あまりにも」という副詞をつけますと、巨きい「あまりにも巨きい」と言って、次の巨塊という場合の巨を強調するために、ただあまりにも巨きい、巨きいを使うことができるようなことになります。それによって、特に私は巨きい死体の塊、罪の結果の巨きい死体の塊というものを強調してですね」

被「巨塊とは、守備隊長のことを巨塊と言ったわけじゃないということですか」

大江「はい。あの、そのように誤解していられる、読み間違えていらっしゃる方かおりますが、しかしそうではなくて、『あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう』と言ってるのでありますから、この彼は守備隊長でありますから、守備隊長が守備隊長の前でということになります。それは読み取りが間違いです」

 

《ここまで、『WiLL071月号の修正》

 

被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」

大江「普通の人間が、軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」

 被「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」

 大江「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」

 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」

 大江「ハンナ・アレントはアイヒマンを実行者だと言っていない。アイヒマンを不思議な人といっている。アイヒマンはドイツの若者たちの罪責感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」

 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」

 大江「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。日本の青年には罪責感というものはない。渡嘉敷島の隊長は、自分の責任を背負って死をということはない。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」

 被「赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」

 大江「知っている」

 被「軍の命令だったとか、隊長の責任としたのを訂正する考えは」

 大江「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要は考えていません。」

被「『ある神話の背景』には、『死の清らかさを自らおとしめてしまうのか』と富野少尉、戦後自衛隊の1佐になった人の言葉が引用されているが」

大江「集団自決は悲惨なもの。それを美しい、清らかなものとは思わない。そういうふうにするのには反対しなければならない。愛国心のために生命を絶ったのだ、清らかな死というのは人間をおとしめるものだ」

 

《被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》

 

《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》

 

《これから以後の原告側代理人と大江氏とのやりとりは、以下に示す個所まで、イザブログでは削除させている》

 

 原告側代理人(以下「原」)「『沖縄ノート』に、『アイヒマンのように裁かれてしかるべきであった』と書かれているが、私たちは、この部分を渡嘉敷島の元守備隊長が大量虐殺の責任者としてアイヒマンになぞらえて絞首刑にされてしかるべきであったと書かれていると読みとったのですが、大江さんは、『陳述書』の中で、戦争の考え方について、旧守備隊長とアイヒマンは、考え方が逆なんですと書いておられますし、アイヒマンと守備隊長をなぞらえて絞首刑にすべきだと言っておられると、読みとるのはまちがいなんだと言われておられますが」

大江「アイヒマンがやろうとしたことは、ドイツの若者がもっている罪責感を自分が公開の絞首刑に処せられることによって拭ってやろうとしたわけです。アレントの本をよくお読みになるとわかります。アイヒマン自身は自分がナチスの虐殺の実行者として犯罪を犯したという意識は最後までありません。彼は、実際にナチスの罪悪をおかしたのは、自分たちの指導者であるといっています。アイヒマンが自分の罪責感、罪障感をもったということは私も書きませんし、ハンナ・アレントも書いていません。」

 原「アイヒマンは、最後まで罪を否定して絞首刑に処刑されています。最終弁論が掲載されていまして、アイヒマンは、私は皆に言われているような冷酷非情な怪物ではありません。私はある誤解の犠牲者なんだと主張して、彼の弁護人もスケープゴートなんだと主張したことを踏まえて言われているんですね」

 大江「質問がよくわかりません」

原「要するに罪責感をもっていなかったと」

大江「ハンナ・アレントは、アイヒマンは極悪人であるとは言っていません。大きい罪を犯す人間が極悪人であるといういい方に私は賛成しないのです。アイヒマンがスケープゴートとハンナ・アレントが書いていますが、私はハンナ・アレントの本を愛読してきた人間ですが、スケープゴートという言葉には強い意味がありまして、私はヒトラーの、ゲッペルスのスケープゴートだと、指導者達がそういう犯罪を起こしてしまった。私は実行者としてそういうことをやったとは一度もないと繰り返し言っているでしょう。私は、ヒトラーの代わりに絞首刑に処せられるんだと」

 原「アイヒマンが公衆の前で、絞首刑にすべきだと主張したことを好意的に評価しておられるということですか」

 大江「好意的でも悪意的でもない。事実を言っている。公開絞首刑ということが、あたかもイスラエル法廷で、あるいはドイツ法廷で行われるものであるという誤解が生じるというもので、公開絞首刑というものはない。彼は公開絞首刑になると考えていたとは思えません」

原「ドイツの青年たちの罪責感を取り除く、その犠牲になるということですか」

大江「ドイツの青年たちの罪障感を取り除いてやるというのが理由ではない。それを主張するかどうかは別のこととして、事実をいっているのです」

原「ハンナ・アレントは、アイヒマンの言葉に対して『無意味なおしゃべり』だと言っていますね。ご存じですね」

大江「はい、知っております」

原「無意味なおしゃべりだと言っていることについて、」

大江「ハンナ・アレントが無意味なおしゃべりだと言っているのは、公開絞首刑のことではございませんけれども、アイヒマンの言っている自己弁護の言葉すべてが無意味なおしゃべりだといっているのでありまして、実際にハンナ・アレントが言ったことは、なんらかの実を結ぶというとはありえないということ、それは法廷において自分自身を弁護する言葉として無意味なおしゃべりだということです。」

原「赤松さんがアイヒマンと同じ言葉を法廷で言うことを想像してヘドをもよおすと言っておられるのだと読みとったんですけども、これはまちがいなんですね」

大江「私が言っていることは先ほど申しました。そこから、今言われた質問は出てこないのですが」

原「アイヒマンのように裁かれてしかるべきだったというのは、赤松隊長が直接の責任者として沖縄法廷で裁かれるべきだったと言われていると読み取るんですが」

大江「もう一度くりかえしますが、渡嘉敷島での集団自決について、」

原「まちがいか、まちがいでないか、答えてください。」

大江「今おっしゃったことはまちがいです。」

原「私の読み取りがまちがいだといわれるんですけど、大江さんは通常の読者にそのような読みとりを期待しておられるんですか」

大江「あなたは違う読み取りをされている。」

原「大江さんは一般の読者が大江さんの書かれたものをどのように読みとるべきだといわれるんですか」

大江「あなたが読者の代表だといわれれば、その証拠を見せてください」

 

《傍聴席から笑い声が起こる》

裁判長「傍聴席から笑い声等不規則な発言をされると、記録ができません。以後そのようなことをされると退廷を命じます。」

 

原「つぎに『命令』の言葉の意味についてですが、『軍の命令』と言われたわけですけど、『沖縄ノート』には、『縦の構造』という言葉も、説明もありませんね。」

大江「はい。自分の文章に対する誤読というものが、曾野綾子さんの文章にも原告の文書にもあるので、そこでそれを明確に説明する必要があると思って、日本軍の命令、32軍の命令、慶良間列島の2つの守備隊の命令というふうに、大きい存在としてとらえるんだと」

原「そのことは『沖縄ノート』には書いておられませんね」

大江「その言葉は使っておりません」

原「そうですね。当時、70年に書かれたときに個人の隊長の命令と区別する形での軍の命令、そのようなアイデアを書かれていませんね」

大江「書いておりません」

原「『沖縄ノート』の中では、集団自決を引き起こしたことについて具体的に書いておられますね。(69ページ第2段の部分を示し、読む)ここでは集団自決の命令を具体的に書いてありますね。他にも1ヵ所『命令』という言葉が入っています。『命令された集団自決』、211ページ『若い将校たる自分の集団自決の命令』と、読者は、ここで使われている『命令』という言葉は、上の『沖縄戦記』から引用された具体的な『命令』を指しているんだと読みとるんだとおもったんですけど、それはまちがいですか、不十分だということですか」

大江「不十分だということより、まちがっているとおもいます。理由を申しましょうか」

原「いえ、結構です。一般の読者には、『沖縄ノート』に書いてない、説明もないものを読みとれというのはちょっと無理ではないか」

大江「無理ではないと思います」

原「『陳述書』10ページには、『沖縄戦史』からの引用について、当初『鉄の暴風』の引用を考えたが、ここには赤松氏の個人の名前が二度出てくるので、『沖縄戦史』からの引用にしたということですね」

大江「そうです」

原「『鉄の暴風』の(記述を読み上げ)、ここを引用すれば、赤松さんの名前がでてこないところを引用すれば、赤松さんの名前なんかでてこないで、問題ないと思うんですが」

大江「この文章よりも上地一史さんの文章の方が、もっとはっきり説明していると、おこしたことについて考えたからです」

原「『陳述書』には、赤松さんの名前が出てくるから選ばなかったんだととれたんですけれども、中味、内容なんですか」

大江「いいえ、両方とも赤松さんの名前が出てくるんですよ。その中で、とにかく人の名前を出したくないと考えて、その部分を引用したんです」

原「あえて『沖縄戦史』の記述を引用した理由は、そのあとに続く『沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をと』ったというふうに書かれていますが、この命題を導き出すためには『沖縄戦史』に書かれた命令にある『部隊の行動を妨げないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』という内容が必要だったと理解してよろしいですか」

大江「いいえ、まちがいです。今言おうとされたことというのはどういうことですか」

原「沖縄の命題とぴったりマッチするのが『沖縄戦史』かと思ったのですが、それはちがうのですか」

大江「ちがいます。『沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題』は、さきほどの『鉄の暴風』の文章からも読みとれますし、この文章でもこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場、集団自決という現場を考えるときに、それ以上に血なまぐさい、酷たらしいことを 例証することはないと考えたのです」

 原「陳述書の13ページに戻ります。命令について、『タテの構造による日本軍が多様な形で口に出され、伝えられ、手榴弾の配布のような実際行動によって示された』とされています。ここでは命令が隊長個人の行為ではなく、日本軍による行為だという説明がなされています。ところが『沖縄ノート』には69ページに『この事件の責任者は今なお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、今本土の日本人が綜合的な規模でそのまま』というのがあります。『この個人の行動の全体像』というのをお聞きしたいのですけど、事件の責任者とされている赤松隊長と梅澤隊長の行動というふうに読みとってよろしいですか」

 大江「いえ、それはちがいます。ここで述べておりますのは、渡嘉敷島の隊長が25年経って、沖縄を訪れて、軍の命令という風なことを認めるという形で、この集団自決ということをあがなうということをしないで、こういう出来事は沖縄に捨てさられ、本土で捨てさられたと信じて沖縄にやってきた、その全体のことを、私はこの内面を想像しているわけです。」

 原「その個人というのは、この事件の責任者と同じと解釈していいんですか」

 大江「沖縄にやってきている元渡嘉敷島の守備隊長です。」

 原「この行為全体の中に、自決命令を発したということも含めるんですか」

 大江「いいえ、ちがいます。説明しましょうか。最初からいっていますように、集団自決の命令というものは、日本軍の命令であり、第32軍の命令であり・・・」

 原「先生の認識として聞いているんですけど、読み取りの仕方として、この個人の行為全体といわれますと、さきほどの命令も含めて個人の行為全体をいっておられると思うんですけど、それはちがうんですね」

 大江「それはちがいます。個人の命令として、すなわち元守備隊長、個人に発した命令として集団自決を論じたことは一度もありません。」

 原「しかし、そういう読み取りを読者に要求する、期待するというのは無理じゃないんですか」

大江「あなたが一般の読者の代表だと言われれば、あなたはどういう立場からそれを推察されるのですか」

原「いや。『あまりに大きい罪の巨塊』という言葉について、罪の大きさをいうんだと言われました。」

大江「ですから、すなわち死体、死体の数の多さ」

原「読んだときに主観的なことを踏まえていわれたのかと思ったのですが、例えば思想だとか、意図だとか、なんのためにそういう罪を犯したのかといったような関係で、『あまりに大きい罪の巨塊』という言葉が出てきたのかなと思ったのですが」

大江「そうではないですね。驚きを感じて聞いています。説明しましょうか。」

原「いえ、結構です。」

 

《原告側代理人が立ち往生状態で、代理人交代して尋問》

《これからあとは、イザブログの修正に戻る》

原「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、その根拠を教えてください。赤松さんは一連の経過の中で、どの場面で中止命令を出せたと考えているのか、」

 大江「実際に行われたことですから、『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそば、北山に、軍隊のそばに島民たちを集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、重大なターゲットに集めるということですから、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」

 原「当時の渡嘉敷島で安全に逃げる場所というのはどこにあったのでしょうか」

大江「どこにあったということはですね。集団自決の場所から逃げてきて生命を救われた人がいることはご存じですか」

原「はい。それは無目的に行動した結果、たまたま助かっただけではないですか」

 大江「無目的に逃げて行って助かる場所は、非常に珍しい場所だとは思いませんね」

 原「集団自決を止める、止めよというのはどういう時点で予見して止めればよかったのですか」

 大江「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった。渡嘉敷島というのはそんなに狭い場所ではない」

 原「前提として、集団自決をしそうだということを赤松隊長は認識できなければいけません。どうして認識できたのですか」

 大江「私は、隊長の個人の性格や能力とか感受性というのではなく、渡嘉敷島の隊長として手榴弾を配るときに、貴重な手榴弾を配っている。当日も20発渡している」

原「どの時点で集団自決をするだろうと予見できたんですか」

大江「それでは、集団自決をするだろうと考えないで、手榴弾を渡すんですか」

原「手榴弾を渡したというのはいつの時点のことですか」

大江「それはずっと渡してきました。そして集団自決が行われた日に新たに20発渡しているんです」

原「そう考える根拠はなんですか、証拠は」

大江「この裁判に提出されている書証が2つある。金城重明証言、吉川勇助陳述書が出されている。手榴弾を与えられたことを書証として提出されています。」

原「金城氏が証言しているのは、3月20日のことである。手榴弾の配布は、米軍の攻撃の前で結びつかないんではないですか」

大江「吉川勇助さんが証言している。金城氏の証言も連動している。」

 

 《原告代理人が、交代して質問》

原「赤松さんは週刊誌に掲載された集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが、集団自決が行われた夜、まったく知らなかったというのはうそだと決めつけておられるんですね」

 大江「事実ではないと思う」

 原「その根拠はなんですか」

 大江「吉川勇助さんの書証の中に、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のいるところにまで押し寄せた』というのがある。こんなことがあって、それで、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」

原「吉川さんの陳述書は、この裁判で出てきたものですね。書かれた時点では、何を根拠に書かれたのか」

大江「私がこの文書を書いた、929日までこの裁判のなかで新しい証言が出てきている。それによって、私は新しい事実をどんどん知った。」

 原「『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令が出たということを事実だと考えているのか」

 大江「事実だと考えている」

 原「手榴弾を事前に配布するということについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米軍に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」

 大江「私には考えられません」

 原「曽野綾子さんの『ある神話の背景』は、昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」

 大江「発行されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんについての批判が3カ所あるから読んでくれ』と送ってきた。それで、急いで通読した」

 原「本の中には安里巡査、知念朝睦さんの証言が掲載されています。『命令はなかった』という2人の証言があるが」

 大江「私は、その本を読んだ時に、その証言は守備隊長を熱烈に擁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」

 原「ニュートラルではないと判断した根拠は」

 大江「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」

 原「しかし、この本の後に発行された『沖縄県史10巻』では、8巻の集団自決の命令について訂正しました。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松隊長命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」

 大江「『沖縄県史10巻』も読みました。教科書裁判の書籍も読みました。家永さんが歴史家の検証に耐えないと考えたということですか。私には(訂正や削除した)理由が理解できません。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれた部分が『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはないと考えた」

原「上地さんの『沖縄戦史』の本の記述が、家永さんの『太平洋戦争』からも削除されたんではないんですか」

大江「この本で括弧して上地一史さんの文ということを示して書いています」

原「要するに、事実か、事実でないか知らないということですね」

大江「いいえ、私は、上地先生が書かれたものによって、書いたのです」

原「家永さんや、『沖縄戦史』から省かれた文だという認識はなかったのですか」

大江「いえ、読みあっていただければわかるんですが」

原「抵触しないということですか」

大江「はい、そうです」

 原「『沖縄戦を考える』という大城将保さんの本なんですけれども・・・」

 

《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。そして、ペットボトルのお茶を飲み、ボトルを傍らに置いて証言を続けた》

 

 原「『沖縄戦を考える』に、曾野綾子氏は、これまで信じられていた神話に対して、初めて怜悧な史料批判を加えて、従来の説を覆した。『鉄の暴風』や『戦闘概要』を丹念に分析して、赤松元隊長以下元隊員たちの証言とをつきあわせて自決命令がなかったこと、集団自決の命令が誇大化されていることを立証した。この事実関係については、現在のところ反証は出てきていないと書いてあります。そのことについてはどうですか」

 大江「いえ、それを考慮する必要はないと思います」

原「陳述書に山川泰邦さんの『沖縄戦記』を引用されています。この復刻版が昨年10月に発行されているんですが、ご存知ですか」

大江「復刻版は見ておりませんが、内容が違ってます」

裁判長「復刻版については、著者が必ずしも改訂したものとは言えません」

大江「私は存じておりません」

原「復刻版では座間味島のことについても書いていますが、どう考えますか」

大江「私は最初から申しておりますが、渡嘉敷島の、座間味島の守備隊長の命令、軍全体の命令、32軍の命令として、ひとつの塊としての命令としてあったということは言っていますが、個人名を上げては一切書いていません」

原「見解の相違のようですが、私は隊長が命令したというように読み取れるんですが」

大江「私は個人名を上げて命令したということは書いていません」

原「曾野綾子さんの書いたもの、審議会で発言されたものを誤読だといわれましたが、赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読みとったのは誤読か」

 大江「内面は代弁できないが、赤松さんは私の『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しくて分からなくて読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた『ある神話の背景』通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」

 原「作家は、世間に対して、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」

 大江「予想がつくと思いますか」

 原「責任はとれない、ということか」

 大江「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」

 原「今日、大江さんが述べられたことは、『沖縄ノート』に書いてありませんね」

大江「はい、書いてありません」

原「読者が理解できるように書くのが作家の責任だとは思われませんか」

大江「70年に『沖縄ノート』を書き、それに関してずっと考えてきまして、誤読というものを考えるんですが、50年小説を書いてきて、誤読に対して訂正し責任を取るということは考えません」

 

《被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》

 

 裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」

 大江「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」

 

 《大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》

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