準備書面(11)の要旨
                                    2007年(平成19年)5月25日
                                       被告ら訴訟代理人
(照屋昇雄証言の信用性について)
1 産経新聞記載の照屋証言は信用できない
  2006年(平成18年)8月27日付産経新聞(甲B35)に掲載された記事によれば、照屋昇雄氏は、昭和20年代後半から、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため渡嘉敷島で聴き取りを実施していたが、調査の際、「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」が、その中に集団自決が軍の命令だと証言した住民は「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」、「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」、「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」、「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。」「私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに、『この話は墓場までも持って行こう』と誓った」などと証言したとされている(甲B35・3枚目。以下、「照屋証言」という)。
 しかし、照屋証言は、以下に述べるように、信用できない。
2 照屋氏の人事記録
 まず、産経新聞記事(甲B35)によれば、照屋氏は、昭和20年代後半から、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め、渡嘉敷島で聞き取り調査を行ったとされている。
  しかし、照屋氏は、1955年(昭和30年)12月に三級民生管理職として琉球政府に採用されて中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し(乙56の1、2)、1956年(昭和31年)10月1日には南部福祉事務所に配置換となり(乙57の1、2)、1958年(昭和33年)2月15日に社会局福祉課に配置換となっている(乙58)。
 そして、照屋氏が、社会局の援護課に在籍していたのは1958年(昭和33年)10月のことであり(乙59)、当時は庶務課に在籍していたとされていることから、照屋氏が昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていたとする照屋証言は、上記の琉球政府の人事記録に反する。
 琉球政府が作成したと考えられる1957年(昭和32年)5月の「戦斗参加者概況表」(乙39の5)に援護法の適用対象として「集団自決」が記載されていること、及び、1957年(昭和32年)7月に日本政府厚生省によって沖縄戦の戦闘参加者処理要綱が正式に決定され、同要綱の中で集団自決が戦闘参加者の20の区分の一つとされていることからも明らかなように、渡嘉敷島における集団自決に援護法の適用が決定されたのは、遅くとも1957年(昭和32年)7月であり、1958年(昭和33年)10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかった照屋氏が、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課の職員として渡嘉敷島において住民から聞き取り調査を行い、援護法適用のために自決命令があったことにしたということは考えられない。
 したがって、照屋証言は信用できない。
3 渡嘉敷島の集団自決は当初より赤松隊長の命令によるものとして援護法による補償の対象とされていた
 照屋証言は、渡嘉敷島において、集団自決の犠牲者が援護法の適用を受けることが困難であったことから、その適用を受けるために、赤松隊長の同意を得て、赤松隊長が自決を命じた文書を作成し、当時の厚生省に提出したとしている。
 しかし、2007年(平成19年)1月15日付沖縄タイムス記事によると、「『集団自決』犠牲者に補償を適用するのは困難だったとされてきたが、沖縄タイムスが入手した座間味村役所資料で、早期認定されていたことが判明した」、「一部マスコミなどによる、補償申請が認定されにくいため『軍命』が捏造された」という主張の根拠がないことを示している」とされている(乙47の1)。そして、同記事によれば、1957年に援護法の申請が開始された当初から、集団自決の犠牲者に対して補償が認定されており、渡嘉敷村役場の援護担当として援護申請の申立書を作成した小嶺幸信氏は、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が難しかったという記憶はない」と証言している(乙47の2)。
 したがって、集団自決の犠牲者に対して援護法の適用が難しかったという事実はなく、援護法の適用の困難を克服するために、集団自決が赤松隊長の命令によって行われたとする話を作り出したとする照屋証言は信用できない。
4 命令文書の不存在
 さらに、照屋証言は、赤松隊長の同意を得て、赤松隊長が自決を命じた文書を作成し、当時の厚生省に提出したとしている。
 しかし、厚生省から事務を引き継いだ厚生労働省に対して、照屋氏らが作成したとする、赤松隊長が自決を命令したとする書類について情報公開請求を行ったところ(乙60「行政文書開示請求書」)、厚生労働省は、「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした」と回答した(乙61「行政文書不開示決定通知書」)。
 援護法に基づく給付は現在も継続して行われているのであるから、援護法を集団自決に適用するために赤松隊長が自決を命令したとする書類が作成されていたのであれば、援護法適用の根拠となる命令文書が廃棄されて存在しないということはあり得ない。
 したがって、照屋証言が真実であれば存在するはずの命令文書はそもそも作成されておらず、援護法適用のために、赤松隊長の同意を得て、玉井村長らと「住民に注ぐ」「死して国のためにご奉公せよ」などと書かれた虚偽の自決命令文書が作成されたとする照屋証言は信用できない。
 照屋証言は、援護法の適用を受けるために玉井村長が赤松隊長に会いに行ったところ、赤松隊長が「『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれた」とする。しかし、赤松隊長の手記(甲2)には、援護法適用のために隊長命令があったことにしたことも、そのために玉井村長が赤松隊長を訪ねたことも、隊長命令があったとする命令書を作成するように言ったことも、全く書かれていない。照屋証言は、赤松隊長の手記とも符合せず、信用できない。
5 住民は、集団自決命令があったと証言している
 また、照屋証言は、渡嘉敷島における調査の際、「1週間ほど滞在し、100人以上から話しを聞いた」が、その中に集団自決が軍の命令だと証言した住民は「一人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」としている(甲B35・3枚目)。
 しかし、すでに繰り返し述べたとおり、渡嘉敷島において集団自決命令が行われたとする住民の証言は多数存在する(乙11−279頁〜287頁・金城重明氏証言、乙9−768頁〜769頁・古波蔵(米田)惟好氏証言)。また、琉球政府に援護課が設置された1953年(昭和38年)ころから慶良間諸島の状況を調査した金城見好氏は、「『集団自決』が軍によって命令されたことや、住民の苦悩などが当時伝わっていた援護業務開始に当たって、『集団自決』で悲惨な体験をしたこと、最初に地上戦が始まった慶良間諸島を特別に調査した」「調査を行った人々から、われわれにも(軍命があったことを)聞かされた」と証言しており(乙47の2)、慶良間列島における住民に対する調査で、住民が軍による集団自決命令があったと証言していたことは明らかである。
 したがって、渡嘉敷島における住民に対する調査において、軍による自決命令がなかったとする照屋証言は信用できない。
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