陳  述  書
2007年7月12日
 大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中
                                             安仁屋 政 昭
1 経歴
  私の経歴は、乙11号証170頁以下に記載されたとおりであり、2006年3月まで沖縄国際大学教授として歴史学を教えていました。現職は、沖縄国際大学名誉教授です。
  また2007年現在、委嘱を受けている地域史の編集委員等として、沖縄県史・沖縄市史・嘉手納町史・宜野湾市史・北中城村史・糸満市史があります。

2 沖縄戦における住民の被害
  沖縄戦における住民の被害については、私は第三次家永教科書訴訟において、意見書を提出し、証人として1988年2月10日那覇地方裁判所の法廷で証言しました。意見書は乙11号証125頁以下であり、証言の内容は乙11号証23頁以下にあるとおりです(乙11号証3頁以下及び乙11号証23頁以下の上段の説明部分も私が書いたものです)。
  乙11号証により、沖縄戦における住民の被害について理解していただけると思いますが、本陳述書では、「集団自決」について補足して述べます。

3 合囲地境における「集団死」
  「集団自決」については、前記意見書にも「4『集団自決』の真相」として記載し(乙11号証153頁以下)、敷衍して証言もしています(乙11号証49頁以下)。
  「日本の敗戦は必至」という認識のもとに戦われた沖縄戦は、太平洋戦争における日米最後の地上戦でした。日本帝国政府にとっては、国体護持が第一義であり、本土決戦準備・終戦交渉の時間をかせぐことが重要な課題でした。
  「国体護持のための捨て石にされた沖縄」という説明が一般になされていますが、沖縄守備軍(第32軍)は、沖縄県民に対して「軍官民共生共死の一体化」を指示し、「一木一草トイヘドモ戦力化スベシ」と言って、根こそぎ戦場動員しました。
そして沖縄戦の住民の被害を考えるとき、最も特異な事例として「集団自決」があげられます。
そこで、まず、「集団自決」という言葉の内実を明確にしなければなりません。
「自決」という場合には、「死をえらぶ人の自発性・任意性」が前提となります。乳幼児が自決をすることはありえませんし、肉親を自発的に殺す者もいません。
  「親が幼子を殺し、子が年老いた親を殺し、兄が弟妹を殺し、夫が妻を殺す」といった親族殺しあいは、天皇の軍隊と住民が混在した戦場で起きています。戦闘に即して言うと、米軍が上陸してきても、そこに日本軍がいなかった地域では起きていません。皇軍の圧倒的な力による押しつけと誘導がなければ起きることがらではありません。防衛庁の記録に「戦闘員の煩累を絶つための犠牲的精神によって集団自決をとげ、皇国に殉じた」(「沖縄方面陸軍作戦」252頁)とありますが、事実に反しています。戦場の住民は、自主的に死を選択したのではありません。
  幾多の複合要因があるとは言うものの、基本的には皇軍の強制と誘導によって、肉親同士の殺しあいを強いられたのです。肉親同士の殺しあいを強制するということは、皇軍による住民殺害と同質同根です。ですから言葉の本来の意味において、沖縄戦では「集団自決」はなかったのです。住民の「集団的な死」は自発的な意思によるものではなく、この実態を「集団自決」と表現することは不適切であり、真相を正しく伝えることを妨げるものです。
  沖縄戦のとき、南西諸島全域は、空も海も米軍によって制圧され、包囲されていました。九州や台湾との往来は遮断されていたのです。
  沖縄守備軍は、県や市町村の所管事項に対しても、指示・命令を出し「軍官民共生共死の一体化」を強制しました。県民の行動は、すべて軍命によって規制され、ここには民政はなかったのです。このような戦場を、軍事用語では「合囲(ごうい)合囲(ごうい)地境(ちきょう)地境(ちきょう)」と言います(注)。合囲地境は、敵の合囲(包囲)または攻撃があったとき、警戒すべき区域として「戒厳令」によって区画したところです。
  合囲地境においては、駐屯部隊の上級者が全権を握って憲法を停止し、立法・行政・司法の全部または一部を軍の統制化に置くことになっていました。
  沖縄戦のとき、「戒厳令」は宣告されなかったものの、奄美から先島諸島にかけて南西諸島全域は、事実上の「合囲地境」であったのです。
  沖縄県知事や市長村長の行政権限が無視され、現地部隊の意のままに処理されたのは、このような事情によるものでした。地域住民への指示・命令は、たとえ市町村の役場職員や地域の指導者が伝えたとしても、すべて「軍命」と受け取られました。
  渡嘉敷島においては赤松嘉次大尉が、座間味島においては梅澤裕少佐が全権限を握っており、渡嘉敷村及び座間味村の行政は軍の統制下におかれ、民政はなかったと考えるべきです。
  日本国民は、軍の命令は「天皇の命令」と教えられてきました。捕虜になるよりも「死を選ぶこと」が「臣民の道」と信じていた一面もあります。皇軍と地域の指導者たちの教導に従って、「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」という「戦陣訓」を実践させられたのです。
(注)
 戒厳令(明治15年8月5日太政官布告第36号)
 第一条 戒厳令ハ戦時若クハ事変ニ際シ兵備ヲ以テ全国若クハ一地方ヲ警戒スルノ法トス
 第二条 戒厳ハ臨戦地境ト合囲地境トノ二種ニ分ツ
  第一 臨戦地境ハ戦時若クハ事変に際シ警戒ス可キ地方ヲ区画シテ臨戦ノ区域ト為ス者ナリ
  第二 合囲地境ハ敵ノ合囲若クハ攻撃其ノ他ノ事変ニ際シ警戒スベキ地方ヲ区画シテ合囲ノ区域ト為ス者ナリ
 第三条 戒厳ハ時機ニ応シ其ノ要ス可キ地境ヲ区画シテ之ヲ布告ス
 第四条〜第八条(略)
 第九条 臨戦地境内ニ於テハ地方行政事務及ヒ司法事務ノ軍事ニ関係アル事件ヲ限リ其ノ地ノ司令官ニ管掌ノ権ヲ委スル者トス(以下略)
 第十条 合囲地境内ニ於テハ地方行政事務及司法事務ノ全部管掌ノ権ヲ其ノ地ノ司令官ニ委ス者トス(以下略)
 
 『軍制学教程』〔昭和17年改訂版・陸軍士官学校の教科書〕第2篇第9章第6節「戒厳」は、戒厳令を説明したうえで、「戦時ニ際シ兵営、官衙、要塞、海軍港、鎮守府、海軍造船所等遽カニ合囲若クハ攻撃ヲ受クル時ハ其ノ地ノ司令官臨時戒厳ヲ宣言スルコトヲ得又戦略上臨機ノ処分ヲ要スル時ハ出征軍ノ司令官之ヲ宣スルヲ得」との説明がある。

4 富山真順氏の証言
  さらに渡嘉敷島については、具体的な軍命令があった証拠があります。
  住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは徴兵事務を扱う専任の役場職員の兵事主任です。私は、渡嘉敷村の兵事主任であった富山真順氏に会って渡嘉敷島の村民の「集団自決」について、詳しく聞くことができました。私は、1968年4月から「沖縄県史」と「渡嘉敷村史」の聞き取り調査と編集に従事してきましたが、渡嘉敷島には、手元に記録等があるだけでも、1971年、1973年、1977年、1981年、1984年、1987年8月、10月、1988年1月の8回出かけ(実際は10回以上行っています。富山真順氏だけではなく、多くの村民から話しを聞くためです)、この間に、私は富山真順氏の証言を幾度も確認しました。
  富山真順氏の証言は、つぎのとおりです。
 @ 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
 A そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示をした。
 B 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
 C 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の「自殺」を促した。
   私は、このことを前記意見書(乙11号証−158頁)に記載し、証言もしました(乙11号証−54頁、69頁)。
  そして沖縄の出張尋問が終わった後の1988年3月30日、富山氏は、私に「玉砕場のことは何度も話してきた。曽野綾子氏が渡嘉敷島の取材にきた1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。事実がゆがめられていることに驚いている。法廷のみなさんに真実を訴えるためにも、わたしの証言を再確認する次第である」と語っています(乙11号証−70頁上段)。
  また富山氏の証言は1988年6月16日の朝日新聞(乙12号証)にも掲載されています。
  手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器です。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことです。しかも、住民をスパイの疑いできびしく監視しているなかで、軍が手榴弾を住民に渡すということは尋常ではありません。住民が密集している場所で、手榴弾が実際に爆発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実であり、これこそ、「自決強要」の物的証拠というべきです。
                                                    以  上
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